一般的な大学生から見た大学の存在とは
僕は大学生になり、テニサー(テニスサークルという名の飲みサークル)に入り、二年間飲み会、麻雀、オールの毎日という、所謂よくいる大学生を経験した。
大学へ行くのは週2日、計3コマ。
そんな頃の自分が見た大学とは、
“出会いの場所”
これは異性という意味でも友人という意味でも先輩後輩という意味でも。
でもこれって結局、「大学とは?=サークルとは?」ってくらい大学には行っていなかったと思う。
つまり、広い繋がりのあるバイトやクラブチームと何ら変わらないものであったと思う。
その後一年間留学し、帰国してからのちょっと真面目になって過ごした大学の二年間。
そんな今の自分が見た大学とは、
“自分の時間を自由に考えて使える場所”
これは学生団体に所属してみたり、授業のグループワークでビジネスアイディア出してみたり、授業に出ないでカフェで勉強してみたり。
でもこれも結局「大学とは?=大学生である時間にやることとは?」ってことだと思う。
じゃあ自分にとって大学一二年、三四年の自分にとっての“大学”の存在を考えると、
“自分が好きな事をして、好きなように過ごして、それでいて将来の保証をしてくれる場所”
なんだと思う。
おそらくこれが大学生の一般意見であろう。
でなければ、こんなにもテストで教授に会うのが初めてって学生もいないし、四年間経済学部でした!でも経済学わかりません!限界効用ってなんですか?パレート最適ってなんですか?って学生もいないと思う。
決して、“学問を学ぶ場”ではないと思う。
じゃあここでの問題点は何か?という問題になると思う。
それは、
“自分の好きなように過ごしても将来の保証になってしまっている大学”
と
“そう捉えてしまっている学生”
なのだと思う。
だが、学生とは言え所詮は成人前後の子どもで、社会経験もないのに、「大学には〜〜〜目的で入り、〜〜〜な学問を学ぶ事で、〜〜〜風に社会に貢献したい」と立派な考えを持って大学に入れというのは難しい話で、ここで話したい大学入学前の教育の問題になってしまう。
それでは、前者。
“自分の好きなように過ごしても将来の保証になってしまっている大学”
は、変えられるのか。
また、変えるならどういう認識となればいいのか?
僕は思う。
大学の存在意義が仮に学問を勉強する場であるのであれば、
“大学が提供しているサービス(講座etc.)によって、学問を学ぶ事が自分にとって、また社会にとって、どれだけ有意義な事かを教えてくれ、その上で自分に合った学問を教えてくれる場所。そして、それを理解し実践するからこそ将来の保証を得られるのではないかと考えられる場所。”
大学が将来への保証をしてくれるという大半の認識(学生、親、企業)を踏まえるのであれば、これが現実的な答えなのではないかと思う。
そして、大学はこの認識を受け止め、だからこそできるサービスを提供すべきではないのかと思う。
もちろん、「学びたい者にはそれだけの場を用意する」という強気な態度を取るも良し。しかしながらそれって結局は大学を保証と捉えている大半の意見を無視しており、それを覆すだけの影響力を持ってやれないのであれば、それは学生にとってマイナスの効果を与えるだけではないか。
「強制的に講義に参加させる」も然り。結果として学問を学ぶ意義を知らないまま保証と捉えて卒業していくだけで、学生にとってもマイナス。
学びたいから大学に入る学生はどうなるのか?!!!!!という意見に対しても、どんな学生にも学ぶ意義を考え直させることは大切であると思う。
本来サービスとは、それに魅力を感じている人が出す対価があって存在する。
現在の大学の「それ」は、「保証」だ
結局自分はいまも大学を保証と自由な場として捉えている。
社会がそうした構造であり、いまの自分にとって意味のあると思う部分が大学でしかできないことではないから。
それでも大学に対してはこんなことを思うのである。
大学が学問を勉強する場として捉え直され、そこにいる学生がそれを目的にいる学生だと捉え直されるのであれば、それを求める企業etc.も求めない企業etc.も分かれ、いわゆる学歴社会もなくなっていくのではないのだろうか。
検索ワード:大学 存在意義 大学に行く意味 目的 大学教育
以前のブログ:
http://ryobookblog.at.webry.info/
(読書ブログ)